チェリビダッケというルーマニア人の指揮者(1912年生/1996年没)がいた。晩年、禅を愛し、仏教徒になった。
白髪オールバックに鷹のような目つき。希代の大指揮者カラヤンについて聞かれたときの彼の言葉が残っている「(カラヤンは)ひどいなんてもんじゃない。彼は商売人として優秀か、でなければ耳がないかのどちらかだ。」
スーパースターの指揮者に対して「耳がない」など、宣戦布告を越えて、一発着弾している。
彼は、数々の暴言を残しながらも、伝説的な指揮者として記憶されている。音楽への弁証法的なアプローチもさることながら、テンポの設定が特徴的だった。俗っぽい表現を使えば「遅い」。とまりそうに「遅い」。そんな彼が大切にしていたのが、微弱音だ。
彼は言う
「真にピアニッシモ(最弱音)が実現されれば、フォルテなどいらない」
私の怖い怖いピアノの師匠が、嬉々として大音量でラフマニノフやリストを弾く私に、顔をしかめながら、諭すように教えてくれたものでだった。「フォルテ(強音)はどんなに強く弾いても、威嚇はできても人の心は開かない。でも、ピアノ(弱音)は人の心を開く。弱音を極めなさい。」
”静かな”音楽は、小さい音とイコールではない。その音楽のもつ豊かさにおいて、ライブハウスの爆音よりも訴求力をもつ。ただの弱音は喧騒に消え入るが、豊かな静けさは、絶対に埋没しない。聴き手が耳を傾けるからだ。
演奏はコミュニケーションである。その奏でる音自体が、「音の姿勢」が、聴衆の心の傾きを生む。
なんの話をしているのか。
昨日(2月14日)の高森氏のブログで語られた、退位問題について、ひいてはある問題を伝えるときの姿勢について、私は感銘を受けた。
・まずは問題や本質を「正しく理解」すること。
・「普通の礼儀」をわきまえること
・「陛下のお役に立とうとする国民に相応しい丁寧な態度で」「真剣に」熱意を伝えること
・「静かに」「懇切に」語ること
・回答が意に沿わなくても「激昂したりしない」こと
これは、「個人」として「共生」のために「対話」するときのエッセンスがすべて詰まっている。高森氏が、長年研究されてきた末にたどり着いた学問的真理や、陛下への敬愛、これが目の前で破壊されようとしているときに、その対話の姿勢として、攻撃的になるのではなく、”強さ”や”圧力”や”大きさ”ではなく、「礼儀」「丁寧」「静かに」「懇切に」「激昂したりしないで」対話せよと言っている。
ここには、私の解釈による立憲主義が想定した”やせ我慢する個人”そのものが描かれている。自己が確信している問題だからこそ、これを声高に叫ぶのではなく、相手を攻撃し否定するのではなく、静かに懇切に伝える。
チェリビダッケの言葉や、私がかつてピアノの師匠に聞いた言葉との通奏低音が、ここにはある。
人は、相手のコンタクトにあわせて、コミュニケーションの姿勢を決める。攻撃的にコンタクトすれば、相手は防御として攻撃的になる。だからこそ、弱音は心を開くが、強音は威嚇しかしないのだ。
本当に伝えたいとき、静かに、しかし豊かさをもって、伝えようと再認識した。なぜなら、それが本当に自分にとって相手に伝えたいからだ。
高森先生、ありがとう